偉大な牛

田上嘉一超公式ブログ

僕の愛車遍歴

まだまだ寒い2012年の2月頭に、僕はロンドンから東京に帰ってきた。1年半に渡るロースクール留学と法律事務所での研修を終えた僕は、それまでの貯金をすっかり使い果たしていた。だから、まず東京での生活セットアップするのに暫くの間耐え忍ばければならなかった。

そうはいっても、小さな子供もいるし、何かと便利だった目黒区から、少し離れた郊外に住むことになったので、買い物や公園に行くのにクルマは必要だ。加えて、厚木の実家にたびたび帰ったり、家族で旅行に行くこともあった。その度にレンタカーを借りていて、それはそれで楽しいこともあったが、反面面倒くさかった。クルマを買おうにも僕の住んでいた小さなアパートの敷地内に駐車場はなかったし、近隣で借りるのも(以前やったことがあるが)、重たい荷物があるときなど大変な手間だ。何より僕は自分のクルマがない状況に満足していなかった。

そうこうするうちに、翌年の3月に新しい家に引っ越すことになった。そろそろクルマを買おうということになっていたので、今度は駐車場のあるマンションを借りた。引っ越してから2ヶ月後。僕はクルマを買った。

買ったクルマはマツダアクセラスポーツ。しかも2.3リッターターボで264馬力の最強モデルだ。

 

僕はこれまでマニュアルのスポーツカーを乗り継いできた。司法修習生のときに、高知で乗っていたのが白い180SX。生まれて初めて買った自分のクルマだったのでとてもうれしくて、高知中を走り回っていたのだが、買って2週間後に峠道の壁に刺さってしまった。その後もしばらく乗っていたが、動かなくなってしまったのでしかたなく手放した。

その後、弁護士になってから買ったのが白いマツダRX-7FD3S)の後期型だった。2005年の冬だ。これは本当にスパルタンなピュアスポーツカーで、なかなか日常の足にするにはしんどいクルマだったが、本当にかっこいいデザインで、よく自分のクルマに見とれていた。世界でロータリー・エンジンを採用しているのはマツダだけ、という孤高のスピリットにたまらなくしびれていた。

僕がこのクルマを買ったとき住んでいた武蔵小山のマンションには駐車場がなかったので、近くにある駐車場にRX-7を停めていた。当時はまだ弁護士に成り立てでとても忙しく、毎晩深夜のタクシーで帰宅していたが、それでも深夜にRX-7に乗って首都高を周回した。漫画の影響を強く受けていたが、とにかく自分のあこがれのクルマを乗り回すことが楽しかった。 

しかし、幸せなときは長く続かないものだ。このクルマも小田原厚木道路を走っているときに集中豪雨におそわれて、道路の継ぎ目でスリップし、壁に刺さってしまった。大破したRX-7はとても再び乗れるような状態ではないように見えたので廃車にするしかないと思っていたが、そこはクルマ好きの上司がいて、修理工場を紹介してくれた。このまま潰してしまうのはとても忍びなかったので、半年くらいかけて修復した。

その後、復活したRX-7のタイヤをインチアップしてホイールを交換したり(グラムライツのT57RC)、マフラー変えたり(HKSのサイレントパワー)、それなりに改造したりもした。そのたびに見た目がちょっと悪っぽくなっていき、僕はそんなRX-7で山道を走っているととても幸せだった。

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RX-7に乗っている間に、僕は結婚し、そして妻が妊娠した。さすがに妊婦がRX-7に乗り降りするのはしんどいし、子供が生まれればチャイルドシートやベビーカーを積まなくてはいけない。RX-7のことはとてもとても好きだが、けど家族には替えられないというわけだ。いよいよクーペのスポーツカーを卒業して、4枚ドアにしなくてはいけないときがきたのだ。

妻は僕がファミリータイプのミニバンかなにかを買うことを期待していたわけだが、僕が次の相棒に選んだのはスバルのインプレッサGDB・涙目)だった。2008年の年明けのことだ。僕はなぜかいつも冬にクルマを買い換える。妻の期待に答えられないのは申し訳なかったが、まだ30歳にもなっていなかった僕は普通のオートマ・セダンに乗る気はさらさらなかったし、乗るならスポーティでパワーのある速い車がよかった。

ランサー・エボリューションでもよかったのだけれど、エンジン横置きFFベースのランサーよりも、縦置きFRベースのインプレッサの方が僕にはかっこよく思えた。確かにラリーやダートラで速いのはランエボなのかもしれないが、伝統の高回転型水平対向エンジンに乗ってみたかったのだ。ロータリー・エンジンのときもそうだったのが、こういった記号的で象徴的な何かに僕はとても弱い。その意味で、僕は現代的な高度資本主義社会の模範的消費者である。

そして想定通り、いや想定以上にインプレッサは速かった。おそらく僕がこれまで乗ったどのクルマよりも速かった。右足に力を入れると、シートの後ろから思い切り蹴飛ばされるような暴力的な加速を楽しむことができた。しかも、同じ速さでもRX-7スケートリンクの上をつるつる滑っているようで、雨の日にちょっとでも気を抜くとどこかへ吹っ飛んでいきそうな怖さがあったが、インプレッサの4つのタイヤはどんなときでもがっちり路面を掴んでいる安心感があった。

サスペンションの調子がよくない気がして、オーリンズの車高調整サスペンションに変えてみたりもした。ダイヤルでダンパーの硬さを変更できるやつだ。大して意味のあることではなかったけれど、クルマに手を入れるのが素敵なことに思えた。

この頃の僕は、カート遊びをはじめたり、富士やもてぎまでSUPER GTを観戦しにいったりして、やたらとモータースポーツに興味を持っていた時期だった。だからインプレッサをリミッターカットして、筑波やFISCOで走らせたりもした。とても楽しかった。

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2010年の夏から僕はロンドンに留学することになった。インプレッサのことはとても気に入っていたのだけれど、さすがにロンドンに持っていくわけにもいかないし、1年以上も日本のどこかに置いておくわけにもいかない。しかたなくここでインプレッサとはお別れすることになった。

ロンドンではクルマは買わないつもりだったが、ひょんなことから知り合いに人がBMWの318を譲ってくれることになった。とても古くて塗装もはげていて、お世辞にもいい状態のクルマとは言えなかったが、それでもクルマがあるおかげで、ロンドン郊外にあちこち出かけられたのは素晴らしかった。イギリスの田舎の道というのは、それはそれは運転していて気持ちのいいものなんだ。ただ大雪の日にスタックしたり、車検が切れていることに気づかず反則金を取られたり、今となっては笑い話だが、慣れない異国の地でのトラブルには本当にまいった。

 

そうして、再び日本で2013年5月に、マツダスピードアクセラが僕の5番目の愛車となった。FFに乗るのは初めてだったが、とても切れ味のよいハンドリングと、ターボが聞いたときのパンチある加速は心地よい。なんとなくだが、座った感じやクルマのサイズなんかはインプレッサに近い気もする。しかしハッチバックなので、インプレッサよりも荷物は積める。家族で乗るにはちょうどいいクルマだった。

 

けれども、時は流れていく。すべては同じように見えて少しずつ変わっていくのだ。アクセラに乗ってから4年。再び僕ら家族のクルマに対する需要というものは変わってしまった。

昨年冬に家族がもう一人増えたし、やたらと買い込んだスノーピークのキャンプグッズを全部アクセラのトランクに詰むことはもはや限界だった。なんだかんだでおじいちゃんおばあちゃんを乗せることもあるし、長男のサッカーの試合のたびに他の友だちやその親たちを乗せる機会も多い。そんなときにアクセラでは、どうしても多くの人数を乗せられない(当たり前なのだけれど)。

これまでずっとこだわってMTのスポーツ車に乗ってきたが、僕もそろそろファミリーカーを選ばなければならないようなのだ。

2017年3月。

僕はまた冬(というか春だけど)にクルマを買い換えることを検討し始めた。

(続く)

 

 

その「正義」は誰のためのものなのか

文化の盗用を批判するポリティカル・コレクトネス 

昨日、話題になったニュース。
アメリカの人気ファッション誌、「VOGUE」で「芸者」風スタイルの写真が掲載されたモデルのカーリー・クロスが炎上し、Twitter上で謝罪する事態に追い込まれたとのこと。ちなみに、この写真が掲載されているのは、VOGUEの2017年3月号だそうだ。

詳細はこちら。

www.huffingtonpost.jp 

このように、ポリティカル・コレクトネスが進んでいる「人権大国アメリカ」では、少数民族の文化・習俗について、特に脈絡なく引用することが「Curtural Appropriation(文化の盗用)」といわれ批判されているのだ。

これも広い意味で、マイノリティに対する人種差別だ、ということなのだろうが、我々日本人からはどうもピンとこないというのが普通の人の感覚だろうか。

 

ハリウッド映画などでは、日本が舞台となっても、文化に対する理解度の低さから、中国や韓国、他のアジア諸国などと入り混じってしまって、「いったいどこなんだこれは」というおかしなものが創り上げられることはよくあるが、多くの場合我々も、笑いこそすれ、怒ったり、差別されたと感じたりすることは稀だろう。

豚の睾丸は不快?

同じ日に次のようなニュースがあった。 

www.okinawatimes.co.jp

沖縄県名護市に設置されたアグー像の睾丸(つまり、金玉)が丸見えで不快だ、と翁長久美子市議がクレームをつけているそうだ。

しかし、これだって、まさかブタがパンツを履いた銅像にしろというわけでもないだろうし、女性器であればOKということでもないだろう。およそ動物である以上生殖器がついているのだからそれを再現して何の不都合があるのか皆目理解できない。

人権の成り立ち

その昔、秩序が確立されておらず、もっと混迷していた時代では、まず奪われず、殺されず、犯されずに、とにかく平和に家族や友人と暮らせることを皆が切望していたはずだ。

だから、ロックは、人として生まれた以上、すべての人に、平等に、天が与えた権利があるのだと訴えたわけだ。その後、社会は少しだけ豊かになったおかげで、現代の先進国において、いきなり物を奪われたり家族を殺されたりすることは、そうそうあるものではない(といっても、例外として交通事故やテロがあるのだけれど)。

ある程度満たされたとしても、人はどうしても世の中をよくしていきたいと思い、そのように行動するようにできている。そういうふうにプログラミングされているといっていい。だから、ある程度皆平和に自由に暮らせるようになった今でも(昔からすると夢のような話だ)、どこかに困っている人はいないか、不当に苦しめられている人はいないかと考え、そういった人たちを救いたいという、清い心の持ち主たちがいる。もっと社会をよくしよう、というわけだ。どんなに豊かになっても、ここは理想郷ではないから、さらに探せば問題はいくらでも見つかる。

しかし、何を正しいと思うかについては、終局的にはその人次第である。現代のように複雑化した社会ではなおさらのことで、ある問題点を解決しようとすると、その副作用として別の問題が起きることも珍しくない。

最終的には人の集まり住む世の中なのだから、どうにかこうにか折り合いをつけていくためには、大半の人がその考えややり方に賛同してくれるかどうかで決まるというのがわかりやすいし、納得も得られやすい。逆に、ごく一部の人の理解しか得られないような主張は、やはり一般的なルールとして認められる可能性は低いだろう。

いったい誰のための「正義」なのか

実際に物理的に、殺されたり盗まれたり壊されたりというのは外からみてもある程度わかりやすい。だから話がはやいのだが、差別とか不快とか、そういった内面になってくると話はそう簡単ではなくなる。

だから、白人が日本人の衣装をまとってファッション誌の写真を取ることは、文化の盗用だ、人種差別だ、という理屈も成立してしまう気もしなくもない。もっといえばどんな表現行為だって、誰かがどこかで傷ついたり不快に思ったりしている可能性がゼロだとは言えない。

しかし、大抵の日本人は、この写真を見てもなんとも思わないだろうし、むしろおしゃれだなと思うぐらいだろう。豚さんの銅像に睾丸がぶら下がっているのをみたって、不快だけしからん猥褻だと思う人は少数派だろうと思う(だとしたらダビデ像なんかはどうなってしまうのだろうか。人間のほうが問題だろうに)。

人間には、社会をよくしようという機能がプリセットされているのだが、その他に、他人を責め立てることで快感を覚えるという機能も搭載されている。そうすることで自分が優位にあり、より品格が高く、正しく高潔な人間だというように錯覚するので、とても心地よく感じてしまうのだ。

今、自分が振りかざしている正義というやつは、本当に多くの人たちに受け入れられる正義なのか。本当にそれを振りかざすことで救われる人たちがいるのか。一体誰のための正義なのか。自分もよくよく考えて発言したいと思う。

イエス様はおっしゃっています。

「あなたがたのうちで罪のない者が、 最初に彼女に石を投げなさい。」
新約聖書ヨハネによる福音書第8章7説)

皆が自分の正義を振りかざして他人を攻撃し合うような、そんな非寛容な社会には、僕は住みたくない。

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朝起きてだるかったら有給を取ってよい

炎上して削除されたマイナビ ウーマンの記事

 さる1月25日、マイナビ ウーマンにおいて、「意味わかんない!『社会人としてありえない』有給取得の理由7つ!」という記事が掲載されました。

 現在は、「法的趣旨を誤解させる表現がございました。内容が不適切と判断し、該当記事を削除させていただきました。読者の皆様に深くお詫び申し上げます。」ということで、該当の記事が削除されています。

お詫びと訂正|「マイナビウーマン」

 というわけで今ではもう読むことができませんが、この記事では、以下のような理由で有給を取ることは、社会人としてありえないということで列挙されていました。

(1)寝坊したから
(2)二日酔いがヒドいから
(3)やる気が出ないから
(4)彼氏と大ゲンカしたから、振られたから
(5)体が痛いから
(6)天気が悪いから

 この記事が公開された直後から、あっちこっちから「何言ってんだ」「法律上の権利だということをわかっていないのか」「転職サイトがこんな記事を掲載するなんて」と集中砲火を浴びて、削除にいたったわけあります。

今度は自分がフルボッコにあう

 そこで、私も「乗るしかない!このビッグウェーブに!」という思い立ち、Facebook上で「有給は権利。「今日は気分がのらない、だるい」と思えば取ればいいのです」とコメントしてみたところ、今度は私が集中砲火を浴びる羽目に。

「突然の不可抗力を除く休みは無理です、権利としても、基本的に業務命令が先行するはずです」
「基本的に労働者は守り育てるのも雇用側の義務です」
「弁護士の先生が全能とは思っていません。弁護士の先生が全能ならば、そもそも裁判官なんていりません。」
「弁護士にも裁判官にも無能な人も有能な人もいます。しっかりと自分の考えで行動できる社会人でありたいですね。」
「弁護士さんが全員労基法に詳しいわけではないので、その辺りは労務管理士さんとか社会保険労務士さんの方がより的確だとは思いますね。」

(一部抜粋)

といったようなバッシングをたくさん浴びました。

 この心温まるコメントをいただいた方たちは直接存じ上げなかったのですが、横に並ぶプロフィール写真から拝察するに、皆さん50-60代あたりの人らしく、偏見を持ってはいかんと思いつつも、「これが・・・・世代か・・・」と感じてしまった次第です。

 私も弁護士が全能とは思ってないですが(そんなこと思ってる弁護士は一人もいないと思いますが)、労働基準法については多少は勉強しております。ましてや労務管理士を引き合いに出されてまで批判されると、ちょっと怒りを覚えるというか、逆に笑えてくるような次第ですが、この人達の凝り固まった古めかしい考え方と、法制度に対する無知蒙昧さは、ひょっとしたら社会における害悪なのではないかと思うと、少し背筋が寒くなりました。

年次有給休暇は労働者の権利である

 ひょっとしたら誤解している方もいるかもしれませんが、基本的に企業と労働者とは、労働契約という雇用関係における対等な契約当事者です。
 そして、年次有給休暇は、労働基準法39条で認められた労働者の権利です。この権利を行使するにあたっては、使用者の承認や許可などまったくもって不要ですし、ましてや権利行使に理由など必要ありません。

 「朝起きてだるい、気分が乗らない、やる気がでない、、、という理由で休むなんて!」と怒っている人たちがいますが、そもそも「朝起きてだるかったり」「気分が乗らなかったり」「やる気がでなかったり」するときに「自由に休んでいいよ!」というのが年次有給休暇という制度なのです。有給取得に怒るのは勝手ですが、怒るのであれば有給を取った人ではなく法律に怒りましょう。

 なお、使用者側は、労働者側の年次有給休暇に対し、時季変更権を行使することもできますが、これはあくまで例外的なもので、「事業の正常な運営を妨げる」事情があれば、使用者は、請求があった日を別の日に変更することができることになっています。
「事業の運営を妨げる」とは、事業の内容、規模、労働者の担当業務の内容、業務の繁閑、予定された年休の日数、他の労働者の休暇との調整など諸般の事情を総合判断する必要があり、日常的に業務が忙しいことや慢性的に人手が足りないことだけでは、この要件は充たされないと考えられています。判例もあります(時事通信社事件・最三小判平4年6月23日)。

 というわけで、マイナビ ウーマンの記事はまったくもって法律的に間違いだらけのものなので、こうしたものはせいぜいがマナーとか常識といった程度のものでしかなく、このようなものを強要するのは「我が社はブラック企業です」と自ら宣言するのに等しいため、批判されるのは致し方ないところです。せっかく安倍内閣が「働き方改革」で、諸外国より圧倒的に年次有給休暇の取得を促進しようとしているこの時期にまったく馬鹿な記事を書いたものです。
 ましてや、「基本的に労働者は守り育てるのも雇用側の義務です」なんて、いったいいつの時代の話なのだろうかと目眩がします。

記事に対する反応で解る法制度の理解度

 こうした会社を擬似家族とする終身雇用システムが作り上げられたのは、石原莞爾、宮崎正義らの日満財政経済研究会の構想、それを受けた岸信介、美濃部洋次、秋永月三ら企画院を中心とする革新官僚による、戦時下における統制経済国家社会主義の名残です。この時期に、資本と経営が分離し、資本市場による直接金融製からメインバンクによる間接金融制へと移行し、ホワイトカラーとブルーカラーの格差が消滅して「従業員」が生まれ、流動性の高かった労働者が終身雇用制度へと取り込まれていきます。この日本型雇用システムは戦後の高度経済成長期においてはおそろしく機能しましたが、その基礎は戦時下において完成されたのです。

 未だに「有給とるならちゃんとした理由をいいなさい」というのはこの時代の統制的な発想が残っている人なのでしょうが、法制度の理解という点では0点です。その意味で今回の記事を巡る事件は、その理解度をはかるちょうどいいリトマス試験紙だったのではないかと思います。

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残業時間に上限をー労働時間と賃金は切り離すべきー

残業時間に上限を

政府は「働き方改革」に取り組んでいますが、昨年の電通での新入社員の自殺などを受けて、労働時間に上限をつけるような法改正を検討しているようです。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

とりあえず残業(時間外労働)を月80時間とするという調整がなされているようですが、時間数はともかく上限を設定することには大賛成です。

どうして長時間労働が認められるのかーそのメカニズム

そもそもどうしてこのように労働時間が伸びてしまうのでしょうか。

労働基準法は、原則として1日8時間、週に40時間という労働時間の規制をおいています(32条)。このような労働時間の規制が設けられたのは19世紀産業革命時のイギリスでして、工場など年少者が長時間働かされ、結核などで死んでいったからです。

日本でも女工哀史や三池炭鉱などをイメージしてもらえればよいのですが、過酷な労働環境にあったので、1911年に工場法が制定され、女子と15歳未満の年少者について深夜業を禁止するとともに、1日12時間の労働規制がなされたのです(実際には施行は遅れてなされました)。

 

ILO基準に基づく労働時間規制が行われたのは、戦後の1947年になってからのことですが、実際には例外規定があったのです。

これが労働基準法36条でして、労働者の過半数で構成される組合、または労働者の過半数の代表者との間に協定書を締結し、これを労基署に提出すれば、法定労働時間規制を超えて働かせることができるのです。これがいわゆる「36(サブロク)協定」です。

あくまで例外的な規定であった36協定が、いつのまにか当たり前となり、労働時間規制は空洞化しました。日立製作所武蔵工場事件(最判平成3年11月28日)では、 残業命令を拒否した労働者が始末書の提出も拒んだため懲戒解雇されたことを適法としています。このように労働者は時間外の労働義務を負うのです。

さらに、価値はねじれていきます。「残業差別」なるものが生まれ、日産自動車事件(最判昭和60年4月23日)では、少数派組合の組合員に対し、残業させなかったことを不当労働行為であると判示しました。つまり、労働者の方からなされた、「自分たちに残業させないなんて不当だ」という主張を認めたのです。

36協定で認められる残業には、実質的な上限がありません。厚生労働省「労働基準法第36条第1項の協定で定める労働時間の延長に限度等に関する基準」を出しており、たとえば一般の労働者であれば1ヶ月に45時間という目安は設けてありますが、これすらあくまで行政指導という目安に過ぎず、臨時に特別の事情があればこれを超えて時間外労働を行わせることも可能です。法律上は歯止めがなく、行政指導として「なるべく長すぎないように」といっているだけなのです。これによって時間外労働は青天井に認められるようなメカニズムができあがっているのです。

実際に、厚労省によると、国内の事業場で特別条項つきの「36協定」があるのは22.4%もあるそうで、特別条項の上限が過労死の基準を上回る事業場も4.8%、大企業に絞れば、この比率は14.6%に達するそうです。

「命」の話が「カネ」の話にすりかわっている

労働時間規制の空洞化は、本来、労働者の生命と健康を守るためであった労働時間規制が、単なる割増賃金(残業代)の計算の基準となることを意味していました。わかりやすく単純化すると、「命」の話が「カネ」の話になっていったのです。上述の日立製作所武蔵工場事件などは、そのいい例です。

もちろん第3次産業が大半を占める現代において1日8時間の労働時間規制を徹底することが現実的とも思えません。しかし、かつて労働者の命や健康を守るためであった労働時間規制が空洞化して意味を成さないというなかで、実際に多くの方が過労死によってなくなっているのも事実です。

したがって、労働時間の絶対的上限規制は必要です。すなわち、労使で合意しようが、働きたいと言おうが、とにかく「これ以上働かせたら違法」という基準を設け、違反には罰則をもってのぞむべきです。これは、ワークライフバランスとか業務効率化がメインテーマである「働き方改革」とはまったく別次元の話です。

ホワイトカラー・エグゼンプションについて

他方で現在において働き方や職種は多様化しています。かつての工場における単純作業を繰り返す労働者は少なくなってきています。つまり一定の裁量をもって成果を求められるホワイトカラーについては、賃金計算基準としての労働時間を緩めることは合理性があります。

そもそも固定給制とはそういった「純粋固定給」だったのであり、現在のように「基本給+残業代」が恒常化してしまっているのがおかしな話なのです。これは、戦時下において、本来時間給だったブルーカラーの工員たちにも月給制度が適用されたものの、残業代という時間給が支払われ続け、ついには純粋月給制だったホワイトカラーにもそれが及んだと言われています(このように日本型雇用システムと呼ばれるものの多くは、1940年体制によって生まれたもので、それには石原莞爾岸信介、宮崎正義などが深く影響を及ぼしているのですが、その話はまたの機会に)。

こちらはあくまで「カネ」の話です。生産性を低くして長くオフィスに居続けることには意味はありません。ホワイトカラー・エグゼンプションは、対象者さえきっちり特定できれば、いわゆる「生活残業」のようなものを失くすことができ、有効な法政策となるでしょう。この「カネ」の話に関する規制については、柔軟に多様化することは必要です。野党が労働基準法改正法案を「残業代ゼロ法案」などとレッテル貼りして反対しているのは本質を見誤っているといえます。

それでも命は絶対に守る

しかし、どんなに裁量があって高い専門性が要求される職種であっても、絶対的な上限規制は必要です。「命」の話と「カネ」の話は切り分けて論じるべきなのです。

この話をすると、「もっと働きたい人の意欲を削ぐことになるのでは」とか「自分はどんなに長時間働いてもまったくピンピンしている」といったような意見を頂戴します。しかし、これはおかしな話であって、とにかく国が意志を持って労働者の生命と健康を守るべきなのです。「自分はビールを5杯飲んでもまったく酔わないので運転させてほしい」というのにも似ていて、それを認めていては一般化された法規範は制定できません。

そしてとにかくもっともっと働きたいというであれば、経営者でも個人事業主にでもなって労働基準法の適用から外れるということもできます。一部の特殊事情をもって他の多くの人達を巻き添えにするのは本末転倒だと思います。

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夫を「主人」と呼ぶのは奴隷根性なんだという考え方

dual.nikkei.co.jp

 

というエントリを読みました。

最後まで読み進めていくと、

今日もフレシネを飲んで、そんなことを考えた。

 とあって、PR記事だということがわかるのだが、というか、こんな最後にまったく関係ないようなものをとってつけてPR記事というのは成り立つのだろうか?広告主はこんなんでいいのか?というのは、さておくとして。

主人と呼ぶのは奴隷根性?

問題は内容なのであるが。

芥川賞作家の川上未映子さんは、結局のところ、夫を「主人」と呼ぶような女性にどうしても納得がいかないようでして。つまるところ、それは「奴隷根性」に根付いているとおっしゃっておられるのである。

言わんとすることはわかるのだ。確かに主人といえば、その反対に位置するのは召使いとか家来とかになるだろう。主従関係を表す用語であることは間違いあるまい。

しかし言葉は生き物である。元来がそのような意味合いで使われたとしても、いくらでも変容しており、今は単に男性配偶者を指し示す言葉となっているというようにも言える。

そもそも日本においては古来より女権社会、母系社会であったという説もあり、

  • めおと (夫婦)
  • おもちち (父母)
  • いもせ (兄妹)

といったように、和語になると漢語に比べて女性が頭に来ることも珍しくない。

加えて、親とは本来母親を示す言葉であり、「刀自(とじ)」といえば、一家の長である女性を示す言葉だった。

さらに言うと「夫(おっと)」の語源は「をひと=男性」という意味であるが、妻(つま)の語源は「連れ身(つれみ)」という説があり、これは「相手に寄り添う人、連れ添う人」という意味である。本来の「つま」は男女に限らず使われていたのであって、「夫」と書いて「つま」と呼ぶ例は古文にはいくらでも出てくる。

しかし、次第に女性配偶者のみを「つま」と呼ぶようになったのだ。これだって考えようによっては、「女性だけが添えものみたいに呼ばれるのはおかしい。女性のみを『つま』と呼ぶのは男尊女卑の表れだ」ということもできるのである。

今、「めおと」という言葉を使ったからといって、女性の優位を示している、などということになるわけでもあるまい。言葉なんてそのようなものだというわけである。言語体系というものは所詮は恣意的な選択の結果であって、その意味ではなんらの価値も含まない絶対中立的な言葉など存在しないなのだから、いちいちそんなことを考えては日常生活に支障をきたしてしまうのだ。

また出たポリコレ棒

さて、それもさておいて、川上氏がそのような自己の考えをもっているのはよしとしよう。誰だって自分の自由な考えを持つことは許されている。

問題は、この文章全体に匂い立つような差別意識が塗り込められていることである。

川上氏は、「夫を主人と呼ぶような女は奴隷根性が染み付いている」「『主人』も『嫁』も差別用語として禁止されるべきだ」「『主人』と呼ぶようなママ友、『嫁』と呼ぶような男は、差別意識に凝り固まった人間だ」というのである。

確認するまでもないことだが、改めて言おう。

自分が自分の配偶者をどう呼ぼうがその人の勝手である(相手が嫌がっていない限りにおいて)。

名前でも、愛称でも、「おい」でも「コラ」でも好きなように呼べば好い。
他人にとやかく言われる筋合いはない。

「あなたがそのような呼び方をするのは差別意識が、、、ジェンダーが、、、男尊女卑が、、、」と言われるかもしれないが、

余計なお世話である。
お前にはまったく関係がないことだ。

自分の考えを持つのは勝手だがそれを無邪気に他人に押し付けないでほしい。
自分が無謬で正義であると盲信しないでほしい。

これこそが「ポリコレ棒」というやつである。

「自分は正しい」と信じ切っているから、タチが悪い。

 

こんなしちめんどくさいことを言ってくるやつがいたら、

「あーそうですか。でも別に自分の旦那をなんと呼ぼうと人の勝手じゃないですか?」

と適当に返しておこう。

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 もしあなたがとても暇で、時間をもてあましているのであれば、

「じゃあ、なんと呼べばあなたは満足なんですか?」

と論争を挑むのもおもしろいかもしれないが、こういうことを言ってくるやつは大抵粘着質で面倒くさいなのであまりおすすめはしない。

 

ある役割を担わせるのであれば、しかるべき権限を与えよという当たり前の話

週末に少し思うところがあったのでまとめておく。

権限・裁量と責任とは表裏一体、不即不離だというのはよく言われていることだが、これを実現させるのは上司、ひいては経営者の役割であり責務である。
チーム内のスタッフ、マネージャー(リーダー)というところでも当然当てはまる話だが、ある程度の事業を任せる事業部長レベルになっても、同じことは当てはまるし、取締役の下位において、会社の部門や会社全体を管掌する場合においても同じことだろう。

役職はその人間の行動を規定する。
能力の低い人間を昇格させて高い地位につけても機能しないのは誰でもわかることだが、逆に能力の高い人間をまずはお試しで低い地位に置いてもやはり機能しないのだ。
「能力の高い人であれば、どんな役職であっても機能するだろう」と思う人がいるかもしれないが、それは実際にはそうでない場合が多い。
正確には、「その人の持てる能力の100%を発揮することはない」ということだ。

能力が高い人材であっても、大した責任もなく権限もないようなポジションにおくとしよう。
たとえば、中途で外部から転職してきた人である。
この場合、優秀な人材であることがある程度事前にわかっていたとしても、従来からいる他の従業員に対する配慮や、実際に使えなかった場合のリスクなどを考えて、とりあえずはお試しということで、小さな権限のポジションに置いてみるということがよくある。

「小さくてもいいからまずはここで成果を出して周囲にその能力を認めさせてほしい。そうすれば次のステップに進める」とかなんとかいう。
もちろん、そうすることはある意味で合理性のある場合が多いし、うまくいく場合もあるだろう。

しかし、すべての場合にうまくいくやり方などない。
うまい具合に好シナリオにはまればいいが、うまくいかないケースも考えられる。
このように軽いポジションに配置された人は、仮に能力が高く全社的に貢献できる人材であったとしても、まずは設定された目標に合わせた部分最適となりやすい。結果的に高次の全体最適のためのパフォーマンスを発揮するのが難しくなってしまったり、タイムラグが生じてしまったりすることなどがある。

そしてワーストケースシナリオとしては、「とりあえず今のポジションにおいて成果を上げてほしいが、君に対する期待値は高いので、できれば他の部署を含めて全体的に俯瞰し、現状の課題を分析した上で解決策となる全社の戦略決定などについても積極的にからんでいって欲しい」などとやってしまうことである。
そう言われても、当人にはこれといった権限も裁量もないので、このような命題は最初から不可能となることがわかっている。
機能しないだけであればまだよいが、このリクエストに真摯に答えてしまうと、むしろ他部署の人間との間に軋轢を生んでしまうことすらありえるだろう。

これは、本来的に武力行使の権限を持たない自衛隊に対して、「いざとなれば超法規的に対応せよ」、というようなものに似ていて、経営者としては絶対に行ってはならないものである。
こうしたオーダーを行ってしまうことの根底には、社内に軋轢を生むことをおそれるあまり、抜擢人事を行う気構えもないくせに、部下に役割以上の働きを期待してしまうという助平心にある。
最初の軋轢は比較的に小さなものであれば、どこかの時点で改革的な人事を行うべきであるし、そのリスクが相対的に高いのであればそもそもそのようなオーダーを出すべきではないのである。

そもそもそういった人材を獲得したことには本来的な狙いがあるはずで、社内におけるある課題を解決するためであろう(そうでなければそもそも抜擢人事は必要ない)。
したがって、①抜擢人事を行うことによって生まれる社内の軋轢というリスクと、②抜擢人事を行わず現状の課題をおざなりにするというリスクの、比較衡量ということになる。

抜擢人事という解決策は、双方のリスクの後者しか解決できないのであるから、これを行わずに後者をもあわせて対策しようというのは、不合理であり不誠実ですらある。

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共謀罪は危険なのか 共謀罪でテロは防げるのか

 共謀罪をめぐる議論

 

今度の国会で、共謀罪を含んだ組織犯罪処罰法の改正案がようやく提出される見込みです。

過去に3度も廃案となった共謀罪ですが、今回は「4度目の正直」ということで次の国会での審議に入る予定です。 

ちなみに「共謀罪」というのは、マスコミが便宜的に呼称しているものでして、今回の法案では「組織犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」という犯罪類型を新設し、その略称を「テロ等組織犯罪準備罪」と呼ぶことが予定されているようです。

そもそも、犯罪の合意という段階での処罰を可能にするための法制度を設けるのは、2000年に日本が国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約(国際組織犯罪防止条約)という条約に調印したためです。

この条約は、文字通り国際的な組織犯罪を防止することを目的とするものですが、その2条で、共謀罪か参加罪の創設を批准の要件としているのです。

ちなみに前者はアメリカやイギリスなど英米法におけるコンスピラシーをベースとしており、後者はフランスやドイツなどの大陸法系と親和性があるものとされています。

 

報道によれば、今回提出予定とされる法案では、適用対象を「組織的な犯罪集団の活動」とし、団体のうち,その結合関係の基礎としての共同の目的が死刑若しくは無期若しくは長期4年以上の懲役若しくは禁固の刑が定められている罪等を実行することにある団体をいうと定義するとされています。

また、犯罪の「遂行を二人以上で計画した者」を処罰することとし、「その計画をした者のいずれかによりその計画にかかる犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の当該犯罪の実行の準備行為が行われたとき」という要件を付しているとのこと。

 

これに対して、反対派は相も変わらず、居酒屋で上司を殴るという話をしただけで処罰されるとか、マンション建設に対する反対運動の協議をしたら処罰されるなどと言っていますが、これらは荒唐無稽な話で、法律の現実的な適用からしてありえないことです。

確かに法律には一定の解釈の余地が残されていますが、それはどのような法律でもあてはまることで、今回の件だけことさらに取り上げるのは、まさに批判のための批判をしているからでしょう。

日弁連は、新しい犯罪類型を設けなくても条約に批准できるとか、条約の批准について国連が審査するわけではないなどということを理由に反対声明を出していますが、

日本弁護士連合会│Japan Federation of Bar Associations:日弁連は共謀罪に反対します(共謀罪法案対策本部)

FATF(金融作業部会)などからも勧告がなされており、

改訂FATF勧告の概要 : 財務省

マネー・ロンダリングや麻薬密売、人身売買などを行う国際的な犯罪集団に対して、各国協力して対応していこうというところに、日本だけが応じないというのは、そもそも国際協力の観点からどうなのだというところです。確かに条約には解釈の余地があるのですが、そのように読めるということも可能だという程度の話であって、「だからうちはとりあえず対応ナシで行きます」ということで各国の理解が得られるとは思えません。日弁連の反対こそ政治的に色の付いたものだといえるでしょう。

ましてや「これからオリンピックをやろうという国が、何をいっているのだ」となるのは自然な反応でしょう。特定秘密保護法のときにも見られた政治的なデマが今回も繰り広げられているなというところです。国民を馬鹿にしているのでしょう。 

共謀罪でテロは防げるか

それでは、テロ等組織犯罪準備罪を設ければ、テロは防げるのかといえば、必ずしもそうはいえないのが実情です。

これについては、刑法雑誌(46巻2号)に掲載されていた、元大阪高検検事長の東条伸一郎氏(明治学院大学教授)の意見が的を射ていると思うので引用します。

「実務家の感覚としては、今回の経緯から見て、いずれば『共謀罪』という形で入ってくるのは間違いないと思われるが、本音では、賛成していない。法執行機関が相手にしているものは、ほとんどの場合、結果(あるいは未遂)が発生している犯罪である。捜査は、これらの結果が出た犯罪については、行為者から始まって、その背景には何があるのかということで進んで行き、共謀共同正犯にまでたどり着く。ところが、今後の共謀罪というのは、後ろの結果の部分がない。いきなり共謀のみが問題となる。結果から遡って捜査を進めてきた現場の捜査官とすれば、共謀というのは非常にやりにくい。本気になって捜査する気なら、特別の捜査官を作らざるを得ないだろう。たとえば、殺人事件があった時、犯人が捕まった、背景に何があるのか、単独犯か共犯か、共犯ならばどういう共犯なのか、という思考方法でわれわれは動いてきた。しかし、共謀罪を独立して処罰するということになると、実務家としては、捜査の端緒をどうやって掴むのかが問題になる。2人以上の人間が相談をして実行しようという実行以前の段階で、捜査の端緒を掴むのは難しいだろう。さらに、訴訟法の問題だが、捜査の端緒を掴んだ後の取調べは、供述に頼るしかない。人の内心の意思がどうであったか、意思の合致があったかどうかということの証拠は供述しかないが、結果が発生する前の段階の犯罪について、この供述の真実性をどのように担保するのだろうか。

 「条約との関係でどうしても必要だというのが立法当局の説明であるが、多国間条約を結んで、これを国内法的に実施しようとすると、実際には難しいことが多い。共謀罪は犯罪の予防に役に立つ、実害が生じる前に捕まえると書いてあるが、実害が生じている振り込め詐欺は捕まえることができているのだろうか。現在の刑法犯全体の検挙数は30%前半で長期低落傾向にある。被害届が出ている事件ですら捕まえられていない。実害が生じているものも捕まえられていないのに、実害が生じていないものをどうやって捕まえるのだろうか。

 「実務家は、客観的に起こったことをどう評価するのか、あるいは、どう証拠化していくのかに苦労している。今度、共謀罪ができるとなると実務家はかなり負担になるだろう。現実問題として、共謀罪というのは、少しら乱暴なことをしないと立件できない犯罪ではないか。」  

 実際に検察官をやっている知人などに聞いても、「共謀罪なんかはできたとしても、実際には使えない」とのことでした。なんとなれば、実体法が作られてもおとり捜査や盗聴などといった捜査手続を認める手続法がなければ張り子の虎であって、実際に捜査の端緒(きっかけ)をつかむことが実に困難だということのようです。

そもそも国際組織犯罪防止条約自体が9/11以前のものであり、テロを目的としておらず、マネロン、麻薬、人身売買などを対象としています。すでに日本はテロ対策に関する条約は多く批准しています。

実際のところ、共謀罪は、そこまで恐れるようなものでもないし、これがあれば大丈夫という特効薬でもない、といったところが実情なのでしょう。

 

建設的な議論を望む

ちなみに、過去3度も廃案となった共謀罪ですが、3回目に廃案になったときは、まさに郵政解散後の小泉内閣でして、自民党衆院に当時300議席を保有しており、小泉内閣絶頂期といっていい時期でした。

この当時に自民党が提出した法案では、主体を単に「団体」としていたり、予備行為や準備行為など、条約で言うところの「合意を推進する行為」を犯罪の成立要件としていなかったりで、かなり杜撰といっていい代物でした。

ですので、このとき民主党が出した対案のほうがより謙抑的で条約の文言にも合致したものでして、この当時の民主党は今と違ってきちんとした対案を出すことのできる野党だったのだなぁと感慨深いです。

今回も長期で懲役4年以上の犯罪を対象とすると、対象犯罪類型が676にも上るそうで、これはさすがにちと多すぎやしないかと思います。

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この犯罪類型を50程度減らすという報道がなされましたが、そもそも業務上過失致死など「どうやって事前に共謀するのだろう」という犯罪が入っていたということですから、これは対象外とするのが妥当でしょう。加えて、日本ではすでに予備、準備、共謀などで処罰できるものが60近くあるそうですから、それと比べてもちょっと対象を絞ってもいいのではないでしょうか。

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さらに、1月17日付の産経では300まで減らすという話もでているそうです。そのあたりの建設的な議論が国会でなされることを望みます。

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