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偉大な牛

田上嘉一超公式ブログ

残業時間に上限をー労働時間と賃金は切り離すべきー

残業時間に上限を

政府は「働き方改革」に取り組んでいますが、昨年の電通での新入社員の自殺などを受けて、労働時間に上限をつけるような法改正を検討しているようです。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

とりあえず残業(時間外労働)を月80時間とするという調整がなされているようですが、時間数はともかく上限を設定することには大賛成です。

どうして長時間労働が認められるのかーそのメカニズム

そもそもどうしてこのように労働時間が伸びてしまうのでしょうか。

労働基準法は、原則として1日8時間、週に40時間という労働時間の規制をおいています(32条)。このような労働時間の規制が設けられたのは19世紀産業革命時のイギリスでして、工場など年少者が長時間働かされ、結核などで死んでいったからです。

日本でも女工哀史や三池炭鉱などをイメージしてもらえればよいのですが、過酷な労働環境にあったので、1911年に工場法が制定され、女子と15歳未満の年少者について深夜業を禁止するとともに、1日12時間の労働規制がなされたのです(実際には施行は遅れてなされました)。

 

ILO基準に基づく労働時間規制が行われたのは、戦後の1947年になってからのことですが、実際には例外規定があったのです。

これが労働基準法36条でして、労働者の過半数で構成される組合、または労働者の過半数の代表者との間に協定書を締結し、これを労基署に提出すれば、法定労働時間規制を超えて働かせることができるのです。これがいわゆる「36(サブロク)協定」です。

あくまで例外的な規定であった36協定が、いつのまにか当たり前となり、労働時間規制は空洞化しました。日立製作所武蔵工場事件(最判平成3年11月28日)では、 残業命令を拒否した労働者が始末書の提出も拒んだため懲戒解雇されたことを適法としています。このように労働者は時間外の労働義務を負うのです。

さらに、価値はねじれていきます。「残業差別」なるものが生まれ、日産自動車事件(最判昭和60年4月23日)では、少数派組合の組合員に対し、残業させなかったことを不当労働行為であると判示しました。つまり、労働者の方からなされた、「自分たちに残業させないなんて不当だ」という主張を認めたのです。

36協定で認められる残業には、実質的な上限がありません。厚生労働省「労働基準法第36条第1項の協定で定める労働時間の延長に限度等に関する基準」を出しており、たとえば一般の労働者であれば1ヶ月に45時間という目安は設けてありますが、これすらあくまで行政指導という目安に過ぎず、臨時に特別の事情があればこれを超えて時間外労働を行わせることも可能です。法律上は歯止めがなく、行政指導として「なるべく長すぎないように」といっているだけなのです。これによって時間外労働は青天井に認められるようなメカニズムができあがっているのです。

実際に、厚労省によると、国内の事業場で特別条項つきの「36協定」があるのは22.4%もあるそうで、特別条項の上限が過労死の基準を上回る事業場も4.8%、大企業に絞れば、この比率は14.6%に達するそうです。

「命」の話が「カネ」の話にすりかわっている

労働時間規制の空洞化は、本来、労働者の生命と健康を守るためであった労働時間規制が、単なる割増賃金(残業代)の計算の基準となることを意味していました。わかりやすく単純化すると、「命」の話が「カネ」の話になっていったのです。上述の日立製作所武蔵工場事件などは、そのいい例です。

もちろん第3次産業が大半を占める現代において1日8時間の労働時間規制を徹底することが現実的とも思えません。しかし、かつて労働者の命や健康を守るためであった労働時間規制が空洞化して意味を成さないというなかで、実際に多くの方が過労死によってなくなっているのも事実です。

したがって、労働時間の絶対的上限規制は必要です。すなわち、労使で合意しようが、働きたいと言おうが、とにかく「これ以上働かせたら違法」という基準を設け、違反には罰則をもってのぞむべきです。これは、ワークライフバランスとか業務効率化がメインテーマである「働き方改革」とはまったく別次元の話です。

ホワイトカラー・エグゼンプションについて

他方で現在において働き方や職種は多様化しています。かつての工場における単純作業を繰り返す労働者は少なくなってきています。つまり一定の裁量をもって成果を求められるホワイトカラーについては、賃金計算基準としての労働時間を緩めることは合理性があります。

そもそも固定給制とはそういった「純粋固定給」だったのであり、現在のように「基本給+残業代」が恒常化してしまっているのがおかしな話なのです。これは、戦時下において、本来時間給だったブルーカラーの工員たちにも月給制度が適用されたものの、残業代という時間給が支払われ続け、ついには純粋月給制だったホワイトカラーにもそれが及んだと言われています(このように日本型雇用システムと呼ばれるものの多くは、1940年体制によって生まれたもので、それには石原莞爾岸信介、宮崎正義などが深く影響を及ぼしているのですが、その話はまたの機会に)。

こちらはあくまで「カネ」の話です。生産性を低くして長くオフィスに居続けることには意味はありません。ホワイトカラー・エグゼンプションは、対象者さえきっちり特定できれば、いわゆる「生活残業」のようなものを失くすことができ、有効な法政策となるでしょう。この「カネ」の話に関する規制については、柔軟に多様化することは必要です。野党が労働基準法改正法案を「残業代ゼロ法案」などとレッテル貼りして反対しているのは本質を見誤っているといえます。

それでも命は絶対に守る

しかし、どんなに裁量があって高い専門性が要求される職種であっても、絶対的な上限規制は必要です。「命」の話と「カネ」の話は切り分けて論じるべきなのです。

この話をすると、「もっと働きたい人の意欲を削ぐことになるのでは」とか「自分はどんなに長時間働いてもまったくピンピンしている」といったような意見を頂戴します。しかし、これはおかしな話であって、とにかく国が意志を持って労働者の生命と健康を守るべきなのです。「自分はビールを5杯飲んでもまったく酔わないので運転させてほしい」というのにも似ていて、それを認めていては一般化された法規範は制定できません。

そしてとにかくもっともっと働きたいというであれば、経営者でも個人事業主にでもなって労働基準法の適用から外れるということもできます。一部の特殊事情をもって他の多くの人達を巻き添えにするのは本末転倒だと思います。

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