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偉大な牛

田上嘉一超公式ブログ

その「正義」は誰のためのものなのか

文化の盗用を批判するポリティカル・コレクトネス 

昨日、話題になったニュース。
アメリカの人気ファッション誌、「VOGUE」で「芸者」風スタイルの写真が掲載されたモデルのカーリー・クロスが炎上し、Twitter上で謝罪する事態に追い込まれたとのこと。ちなみに、この写真が掲載されているのは、VOGUEの2017年3月号だそうだ。

詳細はこちら。

www.huffingtonpost.jp 

このように、ポリティカル・コレクトネスが進んでいる「人権大国アメリカ」では、少数民族の文化・習俗について、特に脈絡なく引用することが「Curtural Appropriation(文化の盗用)」といわれ批判されているのだ。

これも広い意味で、マイノリティに対する人種差別だ、ということなのだろうが、我々日本人からはどうもピンとこないというのが普通の人の感覚だろうか。

 

ハリウッド映画などでは、日本が舞台となっても、文化に対する理解度の低さから、中国や韓国、他のアジア諸国などと入り混じってしまって、「いったいどこなんだこれは」というおかしなものが創り上げられることはよくあるが、多くの場合我々も、笑いこそすれ、怒ったり、差別されたと感じたりすることは稀だろう。

豚の睾丸は不快?

同じ日に次のようなニュースがあった。 

www.okinawatimes.co.jp

沖縄県名護市に設置されたアグー像の睾丸(つまり、金玉)が丸見えで不快だ、と翁長久美子市議がクレームをつけているそうだ。

しかし、これだって、まさかブタがパンツを履いた銅像にしろというわけでもないだろうし、女性器であればOKということでもないだろう。およそ動物である以上生殖器がついているのだからそれを再現して何の不都合があるのか皆目理解できない。

人権の成り立ち

その昔、秩序が確立されておらず、もっと混迷していた時代では、まず奪われず、殺されず、犯されずに、とにかく平和に家族や友人と暮らせることを皆が切望していたはずだ。

だから、ロックは、人として生まれた以上、すべての人に、平等に、天が与えた権利があるのだと訴えたわけだ。その後、社会は少しだけ豊かになったおかげで、現代の先進国において、いきなり物を奪われたり家族を殺されたりすることは、そうそうあるものではない(といっても、例外として交通事故やテロがあるのだけれど)。

ある程度満たされたとしても、人はどうしても世の中をよくしていきたいと思い、そのように行動するようにできている。そういうふうにプログラミングされているといっていい。だから、ある程度皆平和に自由に暮らせるようになった今でも(昔からすると夢のような話だ)、どこかに困っている人はいないか、不当に苦しめられている人はいないかと考え、そういった人たちを救いたいという、清い心の持ち主たちがいる。もっと社会をよくしよう、というわけだ。どんなに豊かになっても、ここは理想郷ではないから、さらに探せば問題はいくらでも見つかる。

しかし、何を正しいと思うかについては、終局的にはその人次第である。現代のように複雑化した社会ではなおさらのことで、ある問題点を解決しようとすると、その副作用として別の問題が起きることも珍しくない。

最終的には人の集まり住む世の中なのだから、どうにかこうにか折り合いをつけていくためには、大半の人がその考えややり方に賛同してくれるかどうかで決まるというのがわかりやすいし、納得も得られやすい。逆に、ごく一部の人の理解しか得られないような主張は、やはり一般的なルールとして認められる可能性は低いだろう。

いったい誰のための「正義」なのか

実際に物理的に、殺されたり盗まれたり壊されたりというのは外からみてもある程度わかりやすい。だから話がはやいのだが、差別とか不快とか、そういった内面になってくると話はそう簡単ではなくなる。

だから、白人が日本人の衣装をまとってファッション誌の写真を取ることは、文化の盗用だ、人種差別だ、という理屈も成立してしまう気もしなくもない。もっといえばどんな表現行為だって、誰かがどこかで傷ついたり不快に思ったりしている可能性がゼロだとは言えない。

しかし、大抵の日本人は、この写真を見てもなんとも思わないだろうし、むしろおしゃれだなと思うぐらいだろう。豚さんの銅像に睾丸がぶら下がっているのをみたって、不快だけしからん猥褻だと思う人は少数派だろうと思う(だとしたらダビデ像なんかはどうなってしまうのだろうか。人間のほうが問題だろうに)。

人間には、社会をよくしようという機能がプリセットされているのだが、その他に、他人を責め立てることで快感を覚えるという機能も搭載されている。そうすることで自分が優位にあり、より品格が高く、正しく高潔な人間だというように錯覚するので、とても心地よく感じてしまうのだ。

今、自分が振りかざしている正義というやつは、本当に多くの人たちに受け入れられる正義なのか。本当にそれを振りかざすことで救われる人たちがいるのか。一体誰のための正義なのか。自分もよくよく考えて発言したいと思う。

イエス様はおっしゃっています。

「あなたがたのうちで罪のない者が、 最初に彼女に石を投げなさい。」
新約聖書ヨハネによる福音書第8章7説)

皆が自分の正義を振りかざして他人を攻撃し合うような、そんな非寛容な社会には、僕は住みたくない。

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